テキスト・データのみ。本文はPDF版參照。

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凡例

1 本冊子は『夕づゝ』第四号の墨書きの本文及び朱書きの批評の全文を掲載順に翻刻し、適宜、註釈と解題を加えたものである。
2 翻刻部分は本文、批評とも枠で囲んだ。
3 原本で朱書きの箇所は翻刻でも朱とした。
4 口絵のカラー写真からもわかるように、各作品とも墨書きの作品本文の後に他の同人等による朱書きの批評が続き、それとは別に本文上の欄外の随処に朱で評が書き込まれ、本文にも朱で圏点やゴマルビが付されている。それらのうち、欄外評については、翻刻本文の欄外に「*3」のように*と数字でその位置だけを示し、評の内容は作品本文及び批評の後に一括して掲げた。また本文中の傍点の類については、傍点の種類や色を原文通りに印刷することが困難なので、翻刻本文では一様に墨傍点とした上で、下の欄外に※を付し、それがいかなる種類や色の傍点であるかを註記した。
5 翻刻担当者によって註釈が付された語句または箇所は、翻刻本文の下の欄外に◎を付してそれを示し、註釈は翻刻の後に一括して掲げた。
6 各作品の翻刻・註釈・解題の担当者の名は目次及び各作品の扉に掲げた。
7 翻刻に当っては出来る限り原文を重んじたが、新字体のある漢字は原則として新字体を用い、略字・俗字などの異体字、変体がな、合字などは原則として現行の字体、表記に改めた。
8 明らかな誤字は< >、脱字は[ ]で補った。
9 句読点は原文のままとしたが、難読のおそれがあるときは適宜直した。
10 無署名の欄外評で、筆者が推測できるものは、末尾に黒字の〔〕を付して補った。
11 解読できない文字は□で示し、推測できる場合は< >内に補ったが、無理な推測は避けた。


翻刻・註釈・解題『夕づゝ』第四号目次


はじめに…………………………………………………………………………………………1

凡例…………………………………………………………………………………………2


『夕づゝ』第四号目次    [翻刻等担当者] 

大海原  古城生   樋渡隆浩…………8
闇(課題文学の一)   二十五弦生   杉尾志帆…………32
花物語  星郊生   加藤大…………40
草紅葉  蓊村   甘利香織…………54 
宵闇(課題文学の二)   夕晴子   大城奈央…………68
朝と夕  白狼   杉尾志帆…………84
闇(課題文学の三)   膽山生   八木淳 趙秀娟…………92
夜長  夏子   鈴木孝尚…………104
雨の和田峠  ふた夜   樋渡隆浩…………116
闇(課題文学の四)   星郊   鈴木理香…………136
夢うつゝ  疎嵐   森洋介…………144
闇(課題文学の五)   古城生   金未耶…………168
――――――――――――――――――
消息欄  同人   青木裕二…………174


中村蓊日記抄 明治三十五年四月〜三十六年七月  曾根博義…………187

同人筆名一覧
[本号における主な筆名] [前号における他の署名][後の主な筆名] [本名] 
古城、古  元  栗原古城  栗原元吉
二十五絃、ふた夜、白狼、白    森田草平  森田米松
星郊、ふじ子、星、明星愛読者  生田星郊、望蜀山人  生田長江  生田弘治
蓊村、膽山、疎嵐、山、としえ、山子  としえ女史、膽嶺、嶺  中村古峡  中村蓊
夕晴、夏子、夕  夕せい、明星愛読者  梧桐夏雄  五島駿吉




夢うつゝ  疎嵐

翻刻・註釈・解題 森洋介



ゆめうつゝ、 疎嵐、
〔未定稿〕
(上、) 
『貴方まあ、どう遊ばしたんで御坐います、……綿入れなんど、お着になって?』
お重は呆気に取られて、中の格子戸に手を掛けたまま佇立つてゐる。
骨も要(かなめ)も折れんばかり、はた〳〵と扇使ひしながら門口を入つて来たのは年の頃三十許の、骨格の逞ましい、丈のすらりとした、併し顔色の嫌に青白い男、寒暖計は彼是九十度にもならうといふ、此の暑さに、之れは亦どう考へたものか、ふく〳〵と綿の膨らんだ銘仙の綿入に、下はネルのしやつまで着込んで、剰へ、見るも苦しや、釦まで厳密(きちん)とかけて。
釘付でもされたやうに鴨居側で立ち止まつて、矒然と今の問の何を意味するやを考へてるかのやう、暫し首俛れたまゝ、沈んで見えたが、やがて腹の底から出たかとも思はるゝ、意味なき高笑をして、又俄かに面相変へて
『姉様! 兄貴は?』
声は如何にも重く響いた。
此の様を眺めて居たお重は、何か心中に思ひ当る処ある如く、独り打ち頷いて、深く先きの問を発したのを悔ゆるやう見えたが、わざと言葉を柔らげて、
『あの主人(やど)のは、今朝程俄かに所要が出来まして、町まで参りましたので御坐います、どうせ今
晩は得戻らぬやうに申して居りましたが……でもまあ貴方、這.所ではお暑くていけませんから、何卒お上り遊ばしませ、別坐敷(はなれ)の方は、これでもいくらか、風通りがよう御座いますから、』
お重は急ぎ井戸傍へ駈けて行つて、鉄桶(ばけつ)に清水を汲んで来た。
『貴方、一寸お足(みあし)でも、お拭(ふ)き申しませう』
男は憚る気色も、否む様子も見えず、丁度稚児が、母親にでも対するやうに、両足差延ばしたまゝ女のするがまゝに任せてゐる、こは又如何に両手合せて、眼光(まなざし)据え〈ゑ〉て、訳の分らぬことを、口に唸やきながら――、
お重は右の足拭き終つて、左の足をふと見れば、膝頭の下の所が、白い布もて、緊しく縛つてある、ハテなァ
『貴方、これは、どうか遊ばしたので御座いますか』
『はゝゝゝゝ、どうも、若い時分、柔術(やはら)をやりまして、怪我した傷が、昨日あたりから非常に痛(いた)み出しまして、時々は血まで出て困ります、はゝゝゝゝゝ』
余り答の意外なのに、お重は凝として、
『おやまあ、それはどうも、お困りでいらつしやいませう、血止膏薬でも、おつけ申しませうか』
といひながら、そと布を解いて見れば、おぞましや傷は愚か蚤の喰跡一つさへ見えない。!
別坐敷へ上りて後も、帯を解いて肌寛がんともせず、亦例の両手合せて眼光(まなざし)据え〈ゑ〉て、口を噤へたまゝ、念ずるが如く、思ふ所あるが如く、熟(じつ)と庭園の一隅を熟視(みつめ)てゐるのを、お重は真正面にも得見ず、横眼に窃(そつ)と眺めながら、気の毒に堪へぬといふ面持で、額に汗をたら〳〵流してゐる
やがて綿入男の噤んだ口は、頬のあたりから、崩れ掛り、次第に眼瞼の緩(ゆる)むよと見えたが、みる〳〵黙思の相貌は一変して、又意味のなき高笑となつた、されど其れも只瞬時の間で、再たび眼据は〈わ〉り、口緊りて、岐とお重を睨め付けた其眼光は如何にも凄かつた。
『姉様! 兄貴は?』
『はい、主人(やどの)は、急に用事が出来まして、今朝程、宿りがけで、町まで…… 』
声は氈〈顫〉へてゐる、
『姉様、私、今日は兄貴に尋ねたいことがあつて、参りました…… 』
驚くお重に用捨なく、愈言葉を鋭くいつた、
『兄貴は昨夜、真夜中に私の所へ、毒を飲ませに来ました!』
之を聞くとお重は恰かも電気にでも打たれ[た]かのやう、慄ひ上つた。顔の色は、土よりも青く変り、全身が身の毛立つて、頭から冷水でも浴せられたやう、体内の血液は悉く心臓へ凝結して仕舞つて、頓には言葉さへ出ない、タラ〳〵と流れ出た腋下の冷汗が横腹を伝うて流れ落つるに驚いて、彼は再び吾にもあらず身戦(ぶる)ひした、
『貴方亦御戯談を仰つて…… 主人(やどの)は昨夜、宵の口から内にばつかり居りましたものを』
必死の勇を揮うて漸く口を開いたのであるが、其声は聞き取れぬまで乱れて居た、
折りしも遊びに飽きて帰つて来た四五歳ばかりなる男の児が、鼻を鳴らしながら、甘つたるい声で
『お母様、なんど! え、なんど頂戴な』
と這入つて来たが、偶然(ふいと)、向ひに坐つてゐる男を見るや否や、俄かにおびえ畏(おそ)れて、お重の袖へ縋り付いた、
『ム、坊か、大きくなつた、どれ抱(だ)つこしてやらう』
『それ、、小父(をぢ)さんが抱つこして上げや〈よ〉うと、うまいことね、行つといで!』
児供に〈は〉急に大きな声で泣き出して、愈母親の袖に噛(しが)み付いた。
『嫌だ〳〵、狂気(きちがひ)の小父様、怖(こわ〈は〉)い〳〵!!! 』

(下、)
あゝもう考へまい、〳〵、いくら考へたとて、今の吾力では如何ともすること出来ないと、お重は勤めて思ひ出すまいとするほど、『姉様! 兄貴は昨夜、毒を飲ませに来ました』と昼の言葉があり〳〵と、まだ耳の底に動いて居て、どうしても眠られない! 
仮令(よし)、この言葉は、彼(あ)の病気にはよくある疑察の念から出たとするも、自分にはどうしても、其れと思はれない―― どうして其れと思はれやうか? そりやァ、あの病気のことなれば随分無理もいはう、乱暴もしや〈よ〉う、偶には此間のやうに、刀振り廻して、大道を狂ひ駈けることもあらう、しかし如斯(あゝ)して隠居屋敷の方へ、殆ど牢屋同様に、終日終夜、閉ぢ込めてあることなれば、さして外へは累を及ぼすやうなこともあるまいに、余り乱暴だから毒を少しづゝ飲ませて、身体を衰(よわ)らせる……嗚呼思ひ出しても戦慄(ぞつ)とする、虫、獣類(けだもの)にならばいざ知らず、之れが吾々人間同志に向つて出来ることであらうか!?
今更いふも甲斐なきことながら、あゝ姉様が生きてさへ下されば斯様なことにはならなかつたらうに、姉様が死(なく)なり遊ばしたばつかりに、幼い時からの約束が全く外(はづ)れ、自分は遂に姉様の候補として、泣く〳〵も今の方と連れ添う〈ふ〉ことになった、自分でさへ其のことを聞いた当坐は、悲しくて〳〵寧そ渕川へでも身を投げて果てや〈よ〉うかとまで思つた位だもの、況して幼い時分から自分を可愛がつて下すつた、彼(あ)の方の落胆は如何であつたらう! 漸くのことで、おあきらめ遊ばして、母方様の御親族へ御養子にゐ〈い〉らつしやることゝなつたが、僅か二月と経つか経たぬに、飛んでもない不意の、あの御病気!
素(もと)より病気は如彼(あゝ)した大層な御心配事が、源因であつた為とはいへ、自分の気の弱味からして自分の所為が其幾分を手伝つてゐるやうに思ひ做さられて堪へられぬ、なることならば一月でも、二月でも、否一年でも一生でも、自分の力の及ぶ限り、自分の命のあらん限り介抱もして見たい、看病もさせて頂きたい!
其れに内の方(かた)の御仕打は!!! …… あゝ思ひ出す度に腸も断たれるやうな感じがする、これでも兄弟といへや〈よ〉うか、よし痛めたお腹は違う〈ふ〉とも生れ落つるから一つ家に育つて来たものを、病気となつては、尚更、一層弟御を劬(いた)はりてやり給ふが兄様たるものゝ義務でもあらうものを………たま〳〵胸の心底を打ち明けて諫めに掛るときは、女の癖に差(さ)し出(で)るな! まだ那様(あんな)奴に未練が残つてゐるかとはしたなき雑言、あゝ自分は、どうして、斯様な鬼のやうな方を、夫と呼ばねばならぬ不幸に生れたか、あゝ、生(い)き甲斐のないこと、寧そ、もう世を捨てた方が……と苦しまぎれに寝(ね)がへりうてば、無心に眠る傍の小児が眼につく、お重の胸の中は千々に乱れて、とつおいつ、心の煩悶は其れから其れへと独楽(こま)の如く回つたが、昼の疲れに何時の間にやら、うと〳〵とした折りしも、表の戸荒らかに叩きて、看護にと附け添へたる権助、ひた走りに駈け来り、『奥様、た…た、大変で御坐ります、若旦那様が今し方、血をどつさりと、おはきになつて……』えッ!と吾知らず声を立て、驚き醒むれば、胸の動悸は早鐘をつくやう、両の拳は開かぬまでに握りしめ、全身は流汗に浮き上がらんばかり、! 心は猶も落ち付き兼ね、若しやと立ち上がりて、蚊帳を出や〈よ〉うとすれば、玄関に下女が戸を開ける音! ヤレ喜しや、今のは正しく夢であつたかと、安堵の溜息つく其下から、やがて此の夢を現(うつゝ)に見ねばならぬかと思へば、お重は胸も掻裂かれる心地して得堪へず其場に泣き崩折れ(くづを〈ほ〉)た。 (六月二十八日草稿) 

附記。有体に白状すれば此扁〈篇〉は今暑中休暇に想を構へしもの、書き終りて読み直し見れば、拙劣粗笨いふに堪へず、尚幾多の推敲の要すべきものあるを知れり而も幾度か捨てんとして終に爰に出す所所〈所以〉のもの、唯本誌が前二号に比し大に紙数の劣るあらんを恐れてなり、豈他意あらんや、豈他意あらんや、

ずーっと始めからよむできて、さてこれから大に理くつをこねや〈よ〉うと思つたら附記と云ふ中に大へん謙遜した断わりがきがあるので折角の理屈も吐き出す所がなくなつてしまつた、唯此作は作者自身の自白する如く後姿や、闇等に比しては甚だ見劣りするのは事実である、たゞ狂人と毒薬とに驚かされてあつと曰つたぎり全体の関係は曖昧で一向要領を得ない、作者の防禦線が充分だから先づ此位でよして置かう(古城) 

狂人をうつすなどは、余程難事だから、前のより見劣りせらるゝのも致し方があるまい。今前〈迄〉のところ個様な小説は、この作者の独り舞台となつて仕舞つた。作者の意気愛すべしぢや。今に三百円の懸賞小説に、きつと当撰するから、今のうち、せッ〳〵と折角の御勉強をなさるがいゝ。
夕晴

成程是は設計がちと大き過ぎた為めに作者が持てあましてる様が歴々見えるしかし僕は此半ば要領を得ないやふ〈う〉な事柄の中に何となく捨て難い所があるやふ〈う〉に思ふ 是は或は此中のある事から聯想して古き記臆でもそれとなく自ら呼び起したせい〈ゐ〉かも知れぬ
いかにも以前に比ぶれば此作者の会話は余程上達せられたらしい仝時に亦弦斎的な所の少くなつたのは大に祝すべしぢや。(星郊)

誰か云ふこの作を以て前々の作に劣れると、然り或は推敲の点に於て、描写の点に於て至らざる所あらむ。されど此篇を以て其結構、関係を曖昧なりと云ひ棄つる古城子に至つては、夫子自ら何うかしてして厶るにあらざるか、他の二人、就中作者自身迄が、此篇を蔑視せるに至つては、我は此点に於てこそ一驚を吃したれ。膽山子よ、余は誠を云へば此篇に接して始めて兄が純客観詩人としての価値を見出したるなり。君が取材の何ぞ奇警にして鋭きや。此篇、柳浪の河内屋と亀さんとを打して一丸となしたる傾きありと雖、人生の尤悲酸なる神秘に触れ、深酷骨に徹する趣あり。若しこの篇の材料、結構をして、数年前の観念小説の亜流なり、陳腐なりとなす者あらば、そは、スコットのレーデーヲブゼレーキを以て清新に非ずとして一概に斥くるが如き、定見なき、一時の風潮に左右せらるゝ軽浮者流ならむ。蘇国詩人のこの傑作が英語の存せむ限り生命を有すべきものとすれば、百年の後に伝はるべき詩は、誠にこの「ゆめうつゝ」の如き人生胸臆の奥秘に触れたる名篇ならずして何ぞや。余は切に、膽山兄のこの羨むべき沈痛の結構を放棄したる事の余りに早きを惜しむ。若し今少し句を練り字を改めたらんには、描写にして、今少し改跚〈刪〉を加へたらんには、近年希に見る傑作にやなりぬらむを、返す〳〵も惜しむべきかな。余は潜にこの天才ある客観詩人の生先きを饒〈翹〉望し、且つ君の今少し行文に注意して敲レ推に忠実ならん事を望む、君が取材の才能は之をかの疎ホン〈粗笨〉なる描写の塵の中に遺棄すべく、余りに惜しき名什ならずや、至嘱、々々(白狼) 

*1 
*2 
*3 
◎佇立つて
◎九十度
◎.然
◎首俛れた
-144-

*4*5*6*7
※傍点赤ゴマヽ
※圏点・は赤
○ 
◎緊しく
◎凝として
※傍点赤ゴマヽ
◎噤へた
※傍点赤ゴマヽ
-145-

*8 
◎口緊りて
◎岐と
※傍点赤ゴマヽ
※傍点赤ゴマヽ
◎頓には
-146-

*9 
*10 
*11 
*12 
※傍点赤ゴマヽ
※傍点赤ゴマヽ
※傍点赤ゴマヽ
-147-

*15
*17
*18


*13 
*14 
*16 
*19 
*20 
※圏点・は赤○ 
※傍点ヽは赤く
※傍点赤ゴマヽ
※傍点赤ゴマヽ
※圏点・は赤○ 
※「自分の力」以
下に重ねて傍点赤
ゴマヽ
※傍点赤ゴマヽ
-148-

*22 

◎後姿や、闇
◎三百円の懸賞小説
◎弦斎的
◎河内屋と亀さん
-150-

◎レーデーヲブゼ
レーキ
◎至嘱
-151-

欄外評

*1 未定稿とはあまり聞かぬ言葉なり〔星郊?〕
*2 なによく流行つたのよ、尻切れとんぼと云ふ事で推敲を経てないからまづいのは御免といふ意が裏にこもつてをる〔古城?〕
*3 何だか始めから意表外で毒気をぬかれた〔古城?〕
*4 このあたりの描写の如何にうまきよ〔白狼?〕
*5 かくして、狂気となりし我いとしの男の足を拭きやるが、せめてものお重の心なぐさ[め]ならずや。〔白狼?〕
*6 馬鹿々々しい
*7 こいつは、一寸妙だね、何だか狐にでもつまゝれる様な気がしたから、眉に、つばをつけて読みなほす〔夕晴〕
*8 これ亦意表外〔古城?〕
*9 東京では、なんどではなく、なんぞと云ひます〔夕晴〕
*10 兄の子なる小児を点綴せし事の如何に深酷なるよ〔白狼?〕

*11 このあたりの言を発するお重が心中の苦悶は如何に、〔白狼?〕

*12 お重の苦悶はいかに〔白狼?〕
*13 此毒が前に説明がないからお重の驚方が余りぎやう山に思はれた〔古城?〕
*14 更に又意表外〔古城?〕
*15 吾はハムレツト想ひ起しぬ
*16 是非この事情は前に説明して貰い〈ひ〉たい、それでなけりや、前の一段が更に要領を得ぬのみか、興味を減ずる事 実に夥しい〔古城?〕
*17 読者をして、意外、唐突の感あらしめしもの皆この罪なり〔古城?〕
*18 又意表外だの奇妙だのと勝手な御托〈託〉を並べて厶る方々は是非今一度初めから読み直して貰い〈ひ〉たい〔白狼?〕

*19 このあたり、誠に人間の声、女の声、霊性の声を暴露したるもの
心に忘れ兼ねたる古傷ある我は、思はず巻を蓋ふ〈う〉て泣けり。字々皆涙、句々皆血、彼の嘲弄的評を弄す
るものは誰ぞ、何等の無情漢ぞ。我は今夜、久しく乾きたる我涙穴に、心ゆくばかり、涙を溢らし得たるを
喜ぶ。〔白狼?〕
*20 意気愛すべしじ〈ぢ〉や〔夕晴〕
*21 この辺は皆圏点を打つべし。作者の描写に至りては感服の外なし〔夕晴〕
*22 夕晴の口わる驚くの外なし〔白狼?〕


*以下、森擔當箇所は、飜刻以外、擔當者の平生の表記方針により正字歴史的假名遣(拗音促音は小書き)とす。
註釋

【佇立つて】「つったって」と訓む。中村古峽『殼』(春陽堂、一九一三年)に「佇立(つつた)つた」といふ用例あり。
【九十度】當時の温度單位は華氏(℉)で、華氏九十度は現行の攝氏單位に換算して約36℃の眞夏日になる。
【矒然】原稿は目偏に旁を夢に作るが、「矒」の誤字と見做した。瞢の俗字で、儚に通ず。音はボウ、くらい意の字。通常は茫然(呆然、バウゼン)と書く所をやや衒學的に表記しようとしたか。
【首俛れた】俛はふせる・うつむく意があり、「うなだれた」と訓まれる。なほ「俛首れる」と宛てた例ならば森田草平『煤煙』長田幹彦「澪落」等に見られる(現代言語セミナー編『辞書にない「あて字」の辞典』〈講談社+α文庫〉、一九九五年、參照)。
【緊しく】「きびしく」と訓まれる。森鴎外『即興詩人』徳冨蘆花『思出の記』等に用例がある。
【凝として】「ぎょっとして」と訓ませるか。
【噤へて】「くはへて」と訓ませるか。「噤」の訓みは通例「つぐむ」。「くはへる」の用字は通例「咥・銜・啣」。

【口緊りて】「くちしまりて」と訓む。廣津柳浪「今戸心中」夏目漱石『明暗』等に用例がある。
【岐と】「きっと」乃至「きと」と訓ませるか。「きっと」の宛字は「屹度」が多く「佶と」と宛てる例もあるが(杉本つとむ編『あて字用例辞典名作にみる日本語表記のたのしみ』雄山閣、一九九四年、參照)、「岐と」の例は不詳。
【頓には】「すぐには」と訓ませるか。通例「頓に」で「とみに」と訓み、急に・たちどころにの意。
【後姿や、闇】いづれも「ゆめうつゝ」の作者・中村蓊(古峽)の作品名。「うしろ姿」は『夕づゝ』前第三號にてとしえ女史の筆名で書いた小説。「闇」は『夕づゝ』本第四號の課題文學の一として膽山の筆名で寄せた小説。

【三百圓の懸賞小説】前年(一九〇一年)七月に『大阪毎日新聞』が六千號記念に募った懸賞小説の第一等が三百圓といふ高額賞金だ
った。翌一九〇二年中村春雨(吉藏)『無花果』が入選作とされて同紙に連載、デビューを飾ってゐる。これに續けの意か。
【弦齋的】村井弦齋を指す。一八六三〜一九二七、小説家、報知新聞編輯長。同紙連載の『日の出島』は一八九六(明治二十九)年以
來六年に亙り、恰度この一九〇二年に完結してゐる。後世名高い『食道樂』も翌一九〇三年初版刊行。評家からは藝術性の乏し
さを批判されながらも大衆讀者に支持され、人氣の絶頂にあった。「弦齋的」とは通俗小説風に墮するを警告した語だらう。
【河内屋と龜さん】共に廣津柳浪作。「龜さん」は一八九五年十二月『五調子』發表、白癡の青年が主人公。「河内屋」は一八九六年九月『新小説』發表、兄弟で從姉妹とそれぞれ婚約してゐたが、兄の婚約相手たる從姉の病死により弟の妻となる筈であった從妹が兄の妻となり、弟と兄嫁となった從妹とは、懊惱する。即ち、狂人を出した所が「龜さん」、かつての許嫁(いひなづけ) 同士である兄嫁と義弟といふ人物設定が「河内屋」、この兩者を掛け合せた趣きと評する。「河内屋」に就ては、まだ單行書に收録してなかったが、この一九〇二年五月九日附の作者中村古峽の日記に「柳浪河内屋をよむ」とある。「數年前の觀念小説の亞流なり」云々は、一八九五、六年頃の川上眉山・泉鏡花らの作風が觀念小説と呼ばれたのによるが、廣津柳浪の諸作はその流れから出て深刻小説・悲慘小説と稱されたのは文學史上周知の通りで、ここでは觀念小説の語が柳浪ら深刻小説をも含む概念にされてゐる。

【レーデーヲブゼレーキ】“The Lady of the lake”は、Sir Walter Scott(一七七一〜一八三二)作の長篇敍事詩。「蘇國詩人のこの傑作」とも言ふは作者の出身がスコットランド(蘇格蘭)であることより。鹽井雨江が『今樣長歌 湖上乃美人』(開新堂書店、一八九四年)の題で譯刊してゐたが、一高の英語の授業で「湖上の佳人」を讀んでゐることが中村古峽日記の翌一九〇三年一月以降に確認できる。白狼(森田草平)はふた夜の筆名で『夕づゝ』本號に寄せた「雨の和田峠」中でも「かの蘇國にありと聞く、ロツクカトリン湖にや似たる」と舞臺であるカトリン湖( Loch Katrine)を比喩に折り込む程で、この騎士道物語に大分熱を上げたらしく見える。
【至囑】大いに望みをかけること、非常に有望なこと(三省堂編修所編『三省堂新国語中辞典』三省堂、一九六七年第一刷、による)。


解題

習作「ゆめうつゝ」から『殼』、その他の短篇へ
―― 中村古峽における狂氣と文學的事象

署名「疎嵐」は本名・中村蓊、後年の中村古峽の筆名の一つである。この一九〇二(明治三十五)年、本『夕づゝ』第四號發行(十一月末出來)の前々月に『牟婁新報』に九月二十四日から掲載した紀行文「湘南悠游録」で既に「疎嵐生」と署名してゐた。さらに翌年『新佛教』三月號に「放鼠記」を疎嵐の署名で載せたが、その外にこの名を用ゐた例は見つかってない(曾根博義編「中村古峡著作年表」『『変態心理』と中村古峡』不二出版、二〇〇一年、參照)。疎懶(ソラン/なまけ)をもぢった自嘲の戲號でもあらうか。
標題「ゆめうつゝ」は目次では「夢うつゝ」と標記される。いづれにせよ、この短篇の末尾から取った語であること一讀瞭然だらう。謂はゆる、夢オチ。作者本人も冒頭「〔未定稿〕」と大書し附記に「拙劣粗笨」と辯疏して頻りに卑下する。實は、古峽の同年の日記には七月一日「朝「夢うつゝ清書して萬朝報に投書す」とあり、『萬朝報』の「毎週懸賞小説」に應募してみたものの「懸賞小説駄目落膽す」(七月七日)といふ結(」) 果だったのである(『萬朝報』の懸賞小説については、紅野謙介「懸賞小説の時代」『投機としての文学活字・
懸賞・メディア』新曜社、二〇〇三年、に詳しい)。それで自信を無くしたものか。朱で書き込まれた同人からの評も概して嚴しい。
しかし、狂人に材を取ったところは興味深い。既に「あたかも作者の『殻』以後の作品や、文学から精神医学、変態心理学への転身を予言しているかのような不思議な小説である」との評がある(曾根博義「回覧雑誌『夕づゝ』の出現―― 百年前の一高の文学青年たち」『文学増刊明治文学の雅と俗』岩波書店、二〇〇一年十月)。といふのも、中村古峽は文學史上纔かに『殼』一作を以て名を留めるマイナー作家であるが、その『殼』(春陽堂、一九一三年初版)は次弟義信の狂死をめぐる事件を小説にした自傳的長篇であった。背景には兄弟の確
執があったこと、曾根博義「中村古峡と『殻』」(『研究紀要』第五十七號、日本大学文理学部人文科学研究所、一九九九年一月)に詳しい。豫言といふのは、この時期まだ弟の精神異常は現れてなかったからである。その間の經緯を今のところ最も詳しく述べた曾根博義「中村古峡の履歴」(『新編中原中也全集別巻(下)資料・研究篇』角川書店、二〇〇四年)から引いておかう。

次弟義信が古峡を頼って上京するのは、古峡が一高三年になった秋、「夕づゝ」第三号と第四号が出る間の明治三五年十一月である。[……]その弟に、軍隊の訓練から帰った後、精神異常の徴候が現われたので、母たちのいる郷里奈良に帰省させ、精神病院に入院させたのは、弟の上京四年後の明治三九年のことだったようだ。[……] 古峡が当時は一口に精神病と呼ばれていた諸種の精神疾患や、変態心理と呼ばれていた異常心理現象に関心を向けるようになったきっかけは、身内の弟に起こったこの思いがけない事件にほかならない。[……] 
[……]弟義信が兄を頼って上京して来た直後の明治三五年一二月に出た回覧雑誌「夕づゝ」第四号に、古峡はすでに、兄が自分を毒殺しようとしていると訴える狂人の弟を描いた言文一致小説「夢うつゝ」(未定稿)を「疎嵐」の名で発表しているのだ。末尾には「六月二十八日草稿」とあり、この暑中休暇に想を構えた拙劣粗笨な作品だと附記している。[……]『殻』ではカインとアベルに擬えられる兄と弟の間の宿命的な対立と抗争は、弟の発病前、上京前から予感されていたのかもしれない。

圖らずも中村古峽の傳記といふ物語における伏線になってをり、後になって顧みれば思ひ當るべき物語の胚珠があるといふわけだ。が、狂人を扱ったことの興味深さといふのはそれだけではない。以下「ゆめうつゝ」本文を順に逐って見てゆくとしよう。
まづ異樣な男が登場する。その風體に始まる種々の異常さの描寫がいささか唐突(だしぬけ) で突拍子も無いため、欄外評で「意表外」といふ文句が繰り返されるわけだらう。たしかに、血が出たと言ふので足の繃帶を解いてみたらば傷すら無いといふくだり等、情報が蓄積されて漸進的に事實が明らかになりゆくといふリアリズムの常道を期する讀者にとっては一種の前言取り消し(palinode)として逆機能するから、「狐にでもつまゝれる樣な氣がした」(欄外評*7)と評されるのも無理ないのかしれぬ。リアリズムに反する異常さを描くと寫實主義(リアリズム) から逸脱しかねぬといふ難關(アポリア) 。後評に「狂人をうつすなどは、餘程難事だから」と夕晴(梧桐夏雄)がいふのはこのことか。當時の文學論用語で言へば「うつす」、即ち「描寫」の問題であるが、だがこれはそれ以上に、敍述の順序に關はる、説話論的(ナラトロジカル) な問題なのである。
さて異樣は異樣でもしかし行文上は狂人であることは未だ判然としてゐないその男が、嫂に向かって兄が自分に毒を飮ませにきたと訴へる。嫂は愕きを抑へて御冗談をと打ち消す。そして、折しも歸って來た幼い甥っ子に「狂氣(きちがひ) の小父樣」と呼ばれるところで(上)が了る。男の異常さを察知させながら明言するのは最後にまで引き延ばす宙吊り技法。「裸の王樣」よろしく、子供ならではの直言に事態を露呈させて幕を引くわけだ。斯くて今や狂人たることが明かされた以上、ここから當然、毒云々の唐突な告發は狂氣ゆゑの妄想かと先讀みされよう。實際、常識から云って家族に服毒させるなぞ信じ難いことだし、現に(下)に入り、嫂であるお重のくどき(心内語の獨白)が長なが續いて(一種の後説法として)義弟との關係や事ここに至る事情が自づと明かされる中でも、毒を飮ませられたといふ狂人の「この言葉は、彼(あ) の病氣にはよくある疑察の念から出たとするも、自分にはどうしても、其れと思はれない」と述べられてゐ、迫害妄想とする豫測を裏付けてくれる(但し「其れとは思はれない」は取りやうによっては二重の意味を持ち得るもので、毒云々の言葉を否認して狂った「疑察」に過ぎぬと言ふのか、狂人の言葉が「疑察の念」とは思はれず事實だと言ふのか、「其れ」の指す範圍がどちらか曖昧ではある)。ところが、すぐ後に「餘り亂暴だから毒を少しづゝ飮ませて身體を衰(よわ) らせる…… 嗚呼思ひ出しても戰慄(ぞつと) とする」ともあり、今度は、毒を飮ませてゐることは(お重には)信じたくないことではあっても既定事實になってゐるやうなのだ。これは、敍述の混亂ではないか。なればこそ、正しくこの箇所に同人たちからの欄外評(*13〜18)も集中してゐるのである。
さらに後段に至ると、まどろんでゐたお重は、義弟が血を吐いたとの知らせに目を醒まされて驚愕することになる。が、すぐそれも夢であったと判る。またしても、前言取り消し(パリノード)。しかし「やがて此の夢を現(うつつ) に見ねばならぬかと思へば」云々と結ばれるのだから、どうやら狂人が毒を飮まされてゐることだけはやはり事實であるらしい。だが斯くも二轉三轉されては事實(= 物語内容)の解讀に苦しむわけで、作者の不手際による敍述の混亂と見られても致し方あるまい。とはいへ本文(テクスト) に即す限りは、混亂してゐるのは無人稱の語り手ではなく焦點人物(= 反射人物(リフレクター) )のお重と見るべきこと、作者を必要以上に貶めぬために附言しておかねばなるまい。語りがお重に焦點化しつつそれで以て状況説明をも兼ねさせようとしてゐるために、煩悶する彼女の混亂が反映(リフレクト) して讀者に物語状況の認知を混亂させてしまふのだ。
しかしながら、ここで星郊(生田長江)の評に藉口すれば、「此半ば要領を得ないやふ〔う〕な事柄の中に何となく捨て難い所がある」と見ることも出來るのではないか。つまり面白いことに、疑心暗鬼を生じて妄想に驅られてゐるのは、狂人の義弟よりむしろお重その人であるかに見えるのだ。狂人よりも、狂人を想ふ人の方が狂ってゐる―― 少なくとも心理的に錯亂しつつある。この(下)での一人稱的敍法による亂れた心理の眞實味(リアリティー) に比すれば、(上)での三人稱的にただ外觀のみ描かれた狂人のあからさまな狂態は取ってつ
けたやうな支離滅裂ぶりで拵へ物臭くさへ感じられる。そして今や(下)の終幕において、夢と現(うつつ) と、妄想と現實とを分かつ筈の意識までもが曖昧に混濁し出す――恰も(上)から(下)へ、狂人から彼女へと、狂氣の感染が起ったかの如く。そしてそれが反映して讀者にとっても何が何やら判らなくなってゆき、さらなる狂氣の輪が擴がる……? もし、さういった心理的戰慄(サイコ・ホラー)の方向を作者がもっと追究してゐたら、「ゆめうつゝ」は所謂「奇妙な味の短篇」として玩味すべき小品に仕上がってゐたかもしれないのだ。
以上はいささか強引な讀みに思はれるかしれない、――まだ中村古峽が漱石門下ともなってゐない一高時代の習作に、『夢十夜』から内田百閧ノ至る「夢幻系列」(高橋英夫)に參ずることを求めようといふのは。作者自身、狙った展開ではあるまい。しかし中村古峽が書いた幾つかの狂人ものの系列において見るならば、その可能性は認めてよいのではないか。こんな機會でも無ければ滅多に言及されることすらあるまいから、後年古峽が發表した諸作を併せて檢討してみる。
うち『殼』についてはさすがに唯一の代表作だけあって大分批評があり、『殼』再刊本(方丈社、一九二四年)に附載された三十八頁に及ぶ「小説『殼』批評集」で讀める。好評を博したと言へるが、材料自體(そのもの) の迫力に頼って作者が事實に負けてゐるとの批判もあった。小宮豐隆の「中村古峽君の『殼』」(『時事新報』一九一三年八月十四・十五日)もそれ。小宮の評は、八十年振りに『殼』が全文收録された『編年体大正文学全集第二巻大正二年』(ゆまに書房、二〇〇〇年)の解説でも竹盛天雄が引いて要約してゐる。即ち、「作者
その人が「殻」を着ており、その枠の中にとどまって弟や母・妹たちと立ち会っている点に問題があるという」旨を指摘するもので、「作者が[……]「自分を強者として〔原ナシ〕自分を正しきものと思惟してゐる」ゆえの「材料」へのかかわり方の弱さをみているのだ」、と(どうしたことかこの小宮の『殼』評に就き竹盛は初出を記し忘れ、曾根博義編「中村古峡参考文献目録」(前掲『『変態心理』と中村古峡』所收)にも漏れてゐ
る)。それが作者古峽自身のエゴイズムの投映であることは、兄弟牆(かき) に鬩(せめ) ぐ葛藤を傳記的事實から跡づけながら曾根博義が論じた通り(前掲「中村古峡と『殻』」)。ここから作者の倫理性や作品の文學性を論ふ方向もあらうが、端的にはそれも描寫において現れるはずで、説話論的な問題として捉へられよう。例へば作者が主人公の兄に即き過ぎてゐるとは、語り手が焦點化をする敍法の問題だ。また常人が狂氣に至る徑路を描いて迫眞だと稱讚される一方、それがあまりに他人の眼からの描寫であることが難點に擧げられる。
だが果して、客觀的描寫にとどまらず發狂した弟の内面まで踏み込んでいったとしたら、『殼』の成功はあり得たらうか。それでは作者は『殼』を小説として破綻させてしまはないか。その頃小説の視點論を研究してゐた評家に中村星湖がゐて(藤井淑禎「多元描写の試みと挫折」『小説の考古学へ心理学・映画から見た小説技法史』名古屋大学出版会、二〇〇一年、參照)、星湖は『殼』に就て「稔といふ長男の追懷の體で書いて行くうちに、次男爲雄の心裡にも、母親その他の心裡にも立入つて書いた所がある、それが形式上の缺點」(「紹介」『早稻田文學』一九一三年六月號)と指摘してゐたが、作全體を通して見れば焦點人物は基本的に主人公・稔になってをり、弟や母に焦點を移すことはあっても概して外的焦點化で、殊に弟に對しては心中まで立ち入った視點は殆ど取ることがない。實際、作中の壓卷と評價される弟爲雄の狂想にしても、弟が語るのを精神病院に面會に來た兄が聽くといふ形で敍述され、鉤括弧に括られ、畢竟、狂人と距離を取った兄の視線の優位は確保されてゐる。その迫力と言ふのも、單に形式上から見れば、弟の訴へが延々と且つ一方的に語られるが故に直接話法の括弧が外れたかのやうに錯覺させ自由直接言説(= 内的獨白)めいた效果を生じたからで、作者の巧んだ手柄ではあるまい。中村星湖は別の所では「『殼』の作者が、全然爲雄の立場に立つて、もしくは爲雄の心裡に立入つて、あの作を書き上げたならば、[……]ゴーリキイやアンドレエエフの失敗[= 狂人心理の誇張・想像]を繰返すことに終つたかも知れない。爲雄の狂氣の發作を外から描いたといふ事が、眞實を描く爲めには餘儀ない手段であつて」等とも説く(「『殼』に就いて」『新小説』一九一三年九月號)。もし、より内的に狂人に焦點化して語らせたならば、恐らく古峽の技倆ではこの「ゆめうつゝ」の如く、どうも曖昧で要領を得ないと評される出來になってしまったことだらう。逆に、さうしなかったからこそ『殼』は古峽にとって唯一例外的に成功した小説だったのだ。とはつまり、讀むに堪へる客觀性を維持し得たといふ程のことだが。
成功しなかった、埋もれた狂人ものの作品と照らし合せてみよう。刊行された『殼』は好評だったが後が續かず、夏目漱石に原稿を持ち込んで斷られたりした經緯は曾根博義「異端の弟子―― 夏目漱石と中村古峡――(下)」(『語文』第百十四輯、日本大学国文学会、二〇〇二年十二月)に述べられてゐる。一九一六(大正五)年八月、漱石に閲讀を乞うた小説二篇が酷評されたことは、『漱石全集』收録の二十四日附中村蓊宛書翰によって知られ、同論はそこから「二つの小説のうち最初の赤子殺しの小説が中村古峡著『変態心理の研究』(大正8年11月、大同館書店刊)の「下篇病院の窓より」の最初に「仮寝の後」の題で収められた作品であることは話の内容から見て間違いない」と同定した。――附言すれば、この初出は古峽が主幹となった日本精神醫學會の月刊誌『變態心理』一九一八年新年號(第一卷第四號)掲載「二狂人」であり、その「一、變質狂」「二、早發痴狂」を、それぞれ「假寢の後」「田舍教師」と改題し分けて、同書に入れたのである。となれば恐らく、二つ目の小説はこの「田舍教師」であって、漱石が同じく八月二十四日附の芥川龍之介・久米正雄宛書翰で「色々な狂人を書き分けたものだといふ原稿」と言及した「癲狂院の中より」とは「二狂人」の原題であったらうかと推定される。收録書『變態心理の研究』は題の通り研究書なので、小説といふよりは續く「狂人の手記」十八例と共に變態心理の症例報告として列べてゐる觀もあったが、のち二篇とも短篇小説集『變態心理の人々』(大阪屋號書店、一九二六年)に再録された。その際「假寢の後」はまた改題して「うたたねの後」とされてゐる。――だが書誌追跡はこれくらゐにしておき、内容を比較しよう。この二篇の狂人ものを引合ひに出すのは、それぞれに「ゆめうつゝ」と似通ふからだ。
「うたたねの後」(の草稿)を難じて漱石が「さうして最後に突然子を殺すのです。子を殺すのは奇拔です」と批評したその突飛さは、チェーホフの短篇「ねむい」(筒井康隆編『いかにして眠るか』光文社、一九八〇年→〈光文社文庫〉一九八八年、所收)で、子守りが泣き止まぬ赤子に惱まされた擧句に殺してしまふ卒然たる幕切れの後味を想はせないでもないが―― 實際もしかしたら古峽はチェーホフを讀んでゐて、自分の得た材料との暗合に興を覺えたのかもしれないが―― 、いま「ゆめうつゝ」と照らせば、これが朱評で「意表外」と言はれ「たゞ狂人と毒藥とに驚かされてあつと曰つたぎり」(栗原古城)と貶されたのと同根なのがわかる。
中村蓊宛書翰で漱石はまづ、好い意味での小説らしい感じが乏しいと斷じた上で、「氣狂になる人の心的状態が毫もないので同情が起らないからではありませんか。氣狂になるには氣狂になる徑路がありませう。それが讀者の腑に落ちないでは主人公に氣の毒だとか可哀さうだとかいふ氣は起し得ません」と助言してゐた。同樣に「ゆめうつゝ」でも狂人については心的状態が無く外面描寫ばかりであり、『殼』もまた發狂する弟に對しては内面にまで立ち入った視點を殆ど取らないこと、既に述べた。但し「うたたねの後」は、三人稱だが專ら主人公(最後に發狂することになる)の視點を通して語られ、その心裡に内的焦點化はしてゐる。無論それは漱石の講評を受けたのち改稿したものである可能性もあるにはあるが、内的焦點化にも拘らず主人公の心理が飛躍する徑路が遂に釋然とせず、突飛な印象なのは漱石の評した儘なので、さう改めてはをるまい。
だがこの突飛な不可解さ―― 漱石はこれを排したけれども、これこそを狂氣の味はひとして評價したい。單に、狂人だからわけ解らんのが當然だなどと言ふのではない。「ゆめうつゝ」の狂人のごとく全く外から觀て取ってつけたやうな異状を體させたのと違って、「うたたねの後」では主人公の内部に焦點を合せれば彼なりの論理が徹ってゐるのが見られ、しかしそれも突き詰めた所になると畢竟獨り決めの飛躍した理路であって他者には通じないといふのが、いかにも狂氣らしい―― 謂はば、狂氣のリアリティーが感じられるのである。乃至は狂ったリアリティー、現實の狂氣性と言はうか。それは、夢における理窟張った不條理さ―― 『夢十夜』のやうな―― にも似る。「ゆめうつゝ」(特に(上))にはまだ無かったこの狂氣のリアリティーは、のち變態心理學(今日謂ふ所の異常心理學)への關心が芽生えて以降に古峽が實際の症例と接してゆく中で獲られたものだらう。
漱石の評に戻れば、その小説らしくないといふのは、初出誌での題や『變態心理の研究』初收時の排列にも見られた通りであった。これは恐らく實話に取材したままモデル離れがしてゐない所爲と覺しい。小説らしからぬのは大抵は作者の稚拙さ故であらうものの、逆に、事實といふものが持つ奇妙なリアリティー、往々にして小説よりも奇である事實そのものの奇妙さ―― お好みならラカン風に現實的(リアル)なものとでも呼ぶべし――を保ってゐる點では、却って好ましいことがある。むしろ中村星湖などはその『殼』評で「小説らしい形式に囚はれてゐる」ことを缺點に擧げ、「斯樣なコンベンシヨンを破つて行かれたい」と望んでゐた(前掲「『殼』に就いて」)。
「ゆめうつゝ」(下)でのお重の長臺詞の獨白は、何やら淨瑠璃のくどきか新派の愁嘆場めいて、家庭小説流の通俗味に陷りさうなところもあったが、下手に小説らしく作らせるとああなってしまふわけだ。かつては許嫁同士だった兄嫁と義弟といふ人物相關にしろ、白狼(森田草平)が後評で示唆する如く廣津柳浪「河内屋」にそっくりその儘でもあるが、現實にも、當時ならありふれたと云はぬ迄もありがちなこと、まして小説では眞似せずとも似やすい陳腐な定型であらう(嫂への道ならぬ思慕といふだけなら、江藤淳の漱石神話にも見られる如し)。その意味で、ここで「小説」といふのは「物語」と呼ぶべきか。「ゆめうつゝ」が弟の發狂以前にそれを豫言
するかに見えたとしてもそれは、現實があって物語に反映されるのではなく、實人生をも物語的定型によって解して物語として反復してしまふ凡庸さの然らしむる所だったと考へればよいのかしれない。
次の「田舍教師」も、實話臭い。「其頃は、徴兵令が初めて世に布かれてからまだ間もない時のことであつた」とやけに事實の尻尾を殘したやうな時代設定があり、誰ぞの昔話を聽き込んで小説に仕立てた節がある。精神鑑定書風に言へば主人公の「生活歴」を記述する如き、一青年が發狂する迄の物語だ。「うたたねの後」の三倍近い六十枚程の長さで、書き込んだ分だけのことはあってか、散々非を打たれた「うたたねの後」(の草稿)に較べて漱石が「多少の發展がある」「順序がともかくも辿れる」「當人のサイコロジーの方から見ても外面的に敍述される事實の連鎖からいつてもいゝやうです」と評價するのは頷ける―― 尤も、もし「田舍教師」(の草稿)をも併せて漱石が見たといふ先の推定が正しければ、の話だが。それに、「比べて見てまだ増しだといふ位なもの」「とても藝術品にはなつてゐない」と、結局漱石からは酷評されてゐる。
この「田舍教師」では、焦點人物はほぼ主人公に固定され心中思惟を交へた敍述(= 内的固定焦點化)が主である。ところが終盤、いよいよその青年が精神に異状を來し出す段になると、これが言動のみ述べて内心の思考感情を傳へぬ敍法(= 外的焦點化)に移行し、遂にはその焦點人物も移って樣々な他者の視點から(= 内的不定焦點化)主人公の言行は間接的に綴られるばかりとなる。つまり、「うたたねの後」と比べれば狂人の内側に踏み込んでゐず、その點では『殼』の語り方に近い。「人間は斯くの如くにして狂人に成るものぞと言ひ得る唯一の書」とは森田草平の『殼』評(『讀賣新聞』一九一三年七月二十七日。この句は『新小説』一九一三年三月號に載った單行本の廣告文(コピー)を少しく改めただけ)であったが、狂氣に至る手前迄は辿っても、發狂して理性の境を越えるや、言葉はその核心を迂回して周圍を低徊するばかりとなるわけだ。これは一般論としてもさうだ。ショシャナ・フェルマンに言はせれば、「つまり、狂気を語ることは、実のところ、常に狂気を否認することなのだ」し、「狂気を表象する(思い描く)ことは[……]、常に己自身の狂気を否定するという場面を演じるものとなるのである」。とはいへ――「だが、狂気についての言説が狂気の言説ではなく、本来的に、狂った言説ではないとしても、こうしたテクストの内には語る狂気が、誰もそこで演じられるものの語る主体となることはできないが、言語を通じてただ一人演じられる狂気というものが存在することに変わりはない」。フェルマンが「レトリックの狂気」と名づける存在だ。即ち、狂氣(について)のテクストにはまたテクストの狂氣が存するのであって、「狂気を語りながら、狂気を行為化し、まさに、「狂気を語ること」と「語る狂気」との遭遇を行為として示すのである」(『狂気と文学的事象』土田知則譯、水声社、一九九三年、548頁以下)。蓋し、作中で對象とする狂人の狂氣とは別に、遂行的(パフオーマテイヴ)な語る狂氣、語ることそれ自體の狂氣が在るだらう、と。
ここで興味深いのは、「田舍教師」の終末部を占める主人公の兄の視點である。弟に異常な徴候が現れたことを妻から聞かされた兄はそれを本氣にしようとせず、叔父から忠告されても、狂人扱ひにするなんて失敬な、と却ける。弟を養子入りさせた後、その近所の姉婿から行状を知らされても「叔父の話にかぶれた」と見做し、さらに弟の養父から急報が届いても、彼までがまたかぶれ出したなと言って立ち上がる。そしてそこで、これまた不意にぶつりと切れたやうに「田舍教師」一篇は結ばれるのだ。この結尾、實弟發狂の事實を飽くまで聞き容れようとしない餘りに頑固な否認ぶりは、偏執的でむしろ兄の正氣を疑はせかねない。狂氣を否認する狂氣。最早どちらが狂人だかわかったものではない氣分にさせられる點で「ゆめうつゝ」(下)のお重と似通ひ、それがまた狂氣の傳染みたいで奇妙な後味を出してゐる。結句の、突然中斷したやうな幕引きは、ここから弟ではなく兄といふ別の狂人の物語が開幕する豫感さへ漂はせよう。さういへば『殼』にはこんな一節があった。主人公である神田稔、狂人の弟を持つ兄の、心内文(心話文) である。

偶(ふ)と又他の物語が胸に浮んだ。――さる男が戰爭に行つて氣狂(きちがひ)になつて歸る。懊惱の極終(つひ)に死んでしまふ。すると今まで彼を看護してゐた弟が、又兄と同じやうな氣狂になる。――これが其物語の筋であつた。
「兄貴が氣狂になつて、又弟が氣狂になつた。兄弟とも氣狂になつて終つた!」
斯う考へて、稔は我知らずぶる〴〵と顫へながら、往來の眞中で佇立(つつた) つた。
「俺も最後(しまひ) には……」彼は最早其の後を考へるに堪へなかつた。

さらには、狂氣の傳染が讀み手までをも卷き込んでゆくとすれば…… 。狙ったものとも思へないが、捨てるには惜しい味で、もっと意識して狙ってみる價値はあったらう。狂人ものの小説といへば夢野久作『ドグラ・マグラ』(初版一九三五年)が金字塔であって、あれも、「これを読了した者は、数時間以内に、一度は精神に異常を来たす」等と角川文庫版の帶文に謳はれてゐたけれども、それ
は誇大廣告といふもので、むしろ『ドグラ・マグラ』はよく練った構成を持つ理詰めの作であり、精神病院にゐる主人公(≒呉一郎)も理知的であって殊更狂氣染みた言動も見せず、入れ子仕掛けに惑はされずにちゃんと讀めば格別不可解な所は無い。對して中村古峽の狂人ものでは、『殼』を除く「ゆめうつゝ」「うたたねの後」「田舍教師」等、作者の小説技術の未熟さ故ではあれ、何か辻褄の合はないモヤモヤした感じが殘って、後を引く。敢へて言はば、その狂氣のリアリティーと組み合せた狂氣の感染力に、魅力と可能性があったと考へる次第。「ゆめうつゝ」をその後の諸作と突き合せればそんな風に讀めたのだが、如何。生憎と、中村古峽當人に
はその可能性を作品に具現できる文體が無かったにせよ、だ。―― フェルマンは、狂氣(について)のテクストが顛覆された所に「テクストの狂気(修辞性)」が位置すると言ふ。狂氣を語ることと語る狂氣との出會ひ。「狂気のレトリック」を顛覆させるのが「レトリックの狂気」である、と。だから恐らく、レトリックの狂氣を存分に發現させるには、狂氣(について)のレトリックが顛覆されるに足るだけ充分に備はった文章でなければなるまい。

ところでこの「ゆめうつゝ」に對し、『夕づゝ』同人中ひとり熱烈に支持してゐたのが白狼ことのちの森田草平である。欄外評で「心に忘れ兼ねたる古傷ある我は、思はず卷を蓋ふ〔う〕て泣けり」(*19)と書いてゐるのも筆蹟からどうやら白狼らしいが、「古傷」とは氣になる言ひ方、早熟で女性經驗に富んでゐた草平が過去の戀愛を想ひ出したといふだけでは足りまい。なぜそんなにも感動したのかと怪しまれる程で、これはもう森田草平論に讓るべき課題だらうが、中村古峽とは狂氣への關心が共通したことは注意しておきたい。中村古峽は一九四五(昭和二十)年の敗戰後、森田草平と屡々書信をやり取りして舊交を温めてをり、それで草平は戰後版
『輪廻』(飛鳥書店、一九四六年→複刻、本の友社、一九九八年)の「跋」(一九四六年七月二十四日附)を、「最近舊友中村古峽から「當時君から貰つた輪廻をこの終戰後になつて初めて讀んでみた。あれは君一生の傑作だよ」と云つて來た」云々と書き出してゐる。續けて曰く、

もう一つこの作には中村君の氣に入るやうな所がある。それは遺傳と異状神經のやうなものを取り扱つてゐるからに外ならない。大學時代、私と中村君とは共に精神病學に興味を有つて、文科の學生でありながら、その頃巣鴨にあつた呉秀三博士の精神病學教室に通つたものだ。それが病みつきで、同君はたうとうその方の專門家になつてしまつた。私はさうも行かなかつたが、この作はいさゝかその頃の名殘りを留めてゐるものである。[……]

古峽には一高から東大へ進學した後に實弟が精神病を發した事情があったが、森田草平の場合は、何故の精神病院見學だったらう。
「ゆめうつゝ」に對する禮讚ぶりを見るに多分、深刻小説的な主題群への執着があり、その一つに狂人への興味もあったといふ所か。草平の『輪廻』(新潮社、一九二六年初版)は自傳的長篇で、天刑病で死んだ父を持つ青年が遺傳の恐怖に苦惱するが遂に母の告白により自分が不義の子で父の血を享けてないことを知るといふ筋、いささか深刻小説風ではある。有名な『煤煙』以上の傑作と評價する向きもあるが、但し、傳染性である癩(ハンセン病)を遺傳病と做す偏見、母親の姦通で救はれるといふ解決の御都合主義等につき、夙に大西巨人の批判がある(「ハンゼン氏病問題その歴史と現実、その文学との関係」『新日本文学』一九五七年七月號〜八月號→改題「ハンセン病問題」『大西巨人文選2 途上1957-1974 』みすず書房、一九九六年)。強ひて結びつければ、かつては精神病も癩病も共に、人に忌み嫌はれ身内からも恥ぢられ、業病とされ遺傳を怖れて家系ごと差別され、不治とされ長期入院生活を強ひられ…… 等々の點で相通ずるものではあった。向精神藥や抗生物質の導入により事態が好轉しかけるのは敗戰後になってである。それまで(イヤいまだに?)、文學における「隱喩としての病」(スーザン・ソンタグ)では結核に次ぐ位地を占めてゐたと言へる。「宿命や運命あるいは「血」に関わる苦悩の象徴としてのイメージ」ゆゑに「近代文学の格好の素材となる」といふわけだ(奈良崎英穂「〈癩〉=「遺伝」説の誕生―― 進化論(ダーウィニズム) の移入と明治文学」『日本近代文学』第63集、二〇〇〇年十月)。森田草平『輪廻』も亦然り。

この白狼ほどではないが、星郊こと生田長江の「ゆめうつゝ」への評語も他の同人からの批難を回護する風があり、「成程是は設計がちと大き過ぎた爲めに作者が持てあましてる樣が見える」と破綻は承知しつつも「何となく捨て難い」と認め、「是は或は此中のある事から聯想して古き記臆でもそれとなく自ら呼び起したせい〔ゐ〕かも知れぬ」と思はせぶりなことを記す。先の「古傷」にも似て、結婚を誓った筒井筒でもあったのか、それとも……と憶測を逞しうさせられる。ついでながら、長江が癩病罹患者だったことに就ては同病の立場から調べた島比呂志「宿命への挑戦――生田長江の生涯」(『「らい予防法」と患者の人権』社会評論社、一九九三年)があるが、これは表立って言明こそされぬものの文壇では公然の祕密だったことで、すぐ思ひつく限りでは例へば橋爪健の回想「狂い咲き島清(しませい) 」(『多喜二虐殺』新潮社、一九六二年)における記述がある。一方、その長江の友人である森田草平はどうか。兩者を對照させた武田徹は、『輪廻』で「森田が癩を主題に選んだのは、生田の病気を知っていたからかもしれない。そうでないかもしれない」と詳らかにしてないが(『「隔離」という病い 近代日本の医療空間』〈講談社選書メチエ〉一九九七年、216頁)、森田は生田に就て「同君は人も知るやうに、生れながらにして重き荊棘を背負つてこの世へ出て來た不幸な人である」云々と婉曲ながらも述べてをり(『續夏目漱石』甲鳥書林、一九四三年、727頁)、遺稿「漱石についての雑録」(『森田草平選集 第四巻 月報 3』理論社、一九五六年九月)では「癩病」と明言してゐる。また恰度『輪廻』の連載(『女性』一九二四年十月號〜一九二五年十一月號)終了直後の一九二五年十二月、長江の病状惡化を案じた慰安會・表彰會が飽くまで病氣は名目に立てぬやうに配慮して企圖されたが、この時に文壇諸家から參加・不參加の返事を得た書信一束を中村古峽が遺してゐて、幹事か事務方でも務めたものらしい。當然森田草平も發起人に加はって舊友の發病を知らなかった筈も無いのに、それにしては『輪廻』での癩病イメージはあまり酷薄で、自分さへ癩の恐怖から解放されれば後は知らぬと言はんばかりだった。そこでは「ハンセン病は単に哀れを誘う舞台装置でしかない」(武田徹)。森田本人にとっても『煤煙』以來仄めかしてきた自傳上の主題で出生の祕密は切實だったらうにも拘らず、猶かかる「感傷主義」(大西巨人)に陷るのは、やはり小説作法が説話論的定型に囚はれてゐる所に問題がないか。
かうした後年の『夕づゝ』同人の三者三樣を對照してゆくと、「ゆめうつゝ」をめぐるやり取りにまで遡って何やら物語めいた構圖に收めたくなる誘惑に驅られぬでもないが、しかし、これ以上はもはや餘談に過ぎよう。ご想像に委せおく。



翻刻・註釈・解題(執筆順)
樋渡隆浩
杉尾志帆
加藤 大
甘利香織
大城奈央
八木 淳
趙 秀娟
鈴木孝尚
鈴木理香
森 洋介
金 未耶
青木裕二

翻刻・註釈・解題 『夕づゝ』第四号
2005年3月31日初版第一刷発行

著者 森田米松・生田弘治・中村蓊・栗原元吉・五島駿吉
編者 日本大学大学院文学研究科『夕づゝ』翻刻の会
発行者 曾根博義
発行所 日本大学大学院文学研究科曾根博義研究室

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